2013年度シェイクスピア祭報告

対談と朗読「蜷川シェイクスピアの稽古場」
松岡和子氏(演劇評論家・翻訳家)×川口覚氏(俳優)

講演「シェイクスピア劇で少年が演じる女の‘ambition’」
講師:楠明子氏(ロンドン大学(King’s College)客員教授・東京女子大学名誉教授)

蜷川シェイクスピアの稽古場

2013_04_27_6若い俳優川口覚さんと翻訳家松岡和子さんが、エネルギーが渦巻く蜷川シェイクスピアの稽古場の様子をお話してくださいました。『じゃじゃ馬馴らし』の稽古で、先輩俳優たちに刺激され、アドバイスをもらいながら役に取り組む、若い俳優たちのひたむきさ。川口覚さんが、さいたまネクストシアターの『ハムレット』の主役に抜擢された時の衝撃的な喜びと不安。厳しくも愛情あふれる蜷川氏への敬愛の念などを、川口覚さんは率直な語り口でお話くださいました。松岡和子さんは『じゃじゃ馬馴らし』の製作過程のドキュメンタリー・ビデオを紹介しながら、俳優たちが次々とアイディアを出し合いながら作品を作り上げて行く創造力にあふれた現場の様子を語ってくださいました。対談の後は、川口覚さんが台詞の朗読を聞かせてくださいました。情熱的で若々しいハムレットやロミオの台詞に、聴衆の皆さんも吸い込まれるように聞き入っていました。


Shakespeare祭講演(27th April 2013)要旨
「シェイクスピア劇で少年が演じる女の ‘ambition’」

ロンドン大学(King’s College)客員教授/東京女子大学名誉教授
楠明子

2013_04_27_5_2 シェイクスピアの劇には、何人かの野心の強い女性人物が登場する。その多くはマクベス夫人やシンベリン王妃のように、王位簒奪のためには国王暗殺をも辞さないか、あるいは『ペリクリーズ』の中のダイオナイザのように、他国の王から預かっている王女を殺すことも躊躇しない「悪女」として描かれている。シェイクスピアの時代には、中世以来の慣習で女性が大衆劇場の舞台に立つことはできず、声変わり前の11歳から18歳ぐらいまでの少年が女役を演じていたので、容貌にはまだ幼さも残っていたであろう少年俳優に、女の ‘ambition’ の残忍で複雑な面を表現させるのに、シェイクスピアはいくつかの工夫を凝らしている。たとえば『マクベス』の1幕7場で、一度は王暗殺を決意したものの、いざとなると躊躇するマクベスを叱咤激励するマクベス夫人が最後に使った手は、彼の「男性性」の欠如を性的に露骨な言葉で非難し、一方で自分の実行力を強調するために自らの「母性」を否定してみせることだった。このあまりにも有名な科白自体には多くの解釈が可能であるが、夫人の心に宿る果てしない野望の残酷さを少年俳優が舞台の上で観客に実感させるのには、実に効果的な科白である。すっかり夫人のペースにはめられたマクベスの逡巡はこの後も続くが、結局は国王を暗殺してしまう。
 一方、女性の ‘ambition’ に振り回される男性に喜劇的な視点を与えて、男性の権威や権力を揶揄しているケースもある。たとえば晩年の作品『シンベリン』(1610)には、シンベリン王の後妻で個人名の与えられていないQueen(王妃)という人物が登場する。世継ぎになるはずの二人の王子は子供の頃に誘拐され、20年間も姿を消しており、王女のイノジェンは身分違いのポステュマスと秘密結婚をして王の激怒を買い、彼は追放されてイタリアに逃亡、イノジェンは自室に監禁されている。この時を絶好のチャンスと考えた王妃は、連れ子のクロートンをイノジェンと結婚させ彼に王位を継がせる画策を立てる。劇の初めから国王の政治に口を出す王妃は、シェイクスピア劇の中で政治に関わる数少ない女性の一人である。
 クロートンは一貫して愚かな道化的な人物として描かれていて、彼には王の後継者になる能力がないのは明らかである。王妃はそんな息子を操り、自分の思うままに政治を動かすことを狙っている。実はシンベリン王暗殺をも考えていて、薬学を学ぶという口実で侍医のコーネリアスから薬草や毒物を使って毒薬をつくる方法を教えてもらい、ネズミなどの小動物で実験を行っている。シンベリンは彼女の美しさに惚れ込んで後妻にしたようだが、彼女の邪悪な心根には全く気づかなかったようだ。しかし、気の強い王妃も、クロートンが行方不明になると動転し、高熱のために死んでしまう。最後を看取ったコーネリアスと侍女たちが登場し、王妃が最後に語った言葉をシンベリンに伝える。即ち、王妃がシンベリン王を愛したことはなく、彼女が思いこがれたのは、王を通して得られる偉大な権力であり、王権と結婚し、王位の妻になりはしたが、国王自身には虫唾(むしず)が走ると告白したというのである(5. 5. 37-40)。
 この後もコーネリアスの報告は続き、王妃はイノジェン毒殺をも企てていたことが明らかになる。王妃本人からではなく第三者を通してであったとはいえ、ブリテン王であるシンベリンがこのような侮蔑的な言葉を浴びせられるこの場では、通常、観客から笑いが生じる。その上、シンベリンは問題の本質を依然として理解せず、美しい王妃の本心を見抜けなかった自らの判断力のなさを恥じるところは全くない。この劇で少年が演じる王妃の野心は、シンベリン王の権威や権力を諷刺する役割を果たしている。
 シェイクスピアによる「野心」をもつ女性の表象の中で、他の女性とは異なる特徴をもつ登場人物が1人いる。それは、一般に1604~05年頃の作とされるAll’s Well That Ends WellのHelenaである。この劇は一応ハッピーエンドに終わるので、1623年に出版されたThe First Folioでは喜劇のジャンルに入れられているが、その結末の運び方には喜劇に相応しくない面が多々あり、現代では一般に ‘Problem Plays’ の一つとみなされている。
 All’s Well That Ends Wellは、ボッカチオの『デカメロン』をウィリアム・ペインターが英訳したThe Palace of Pleasure 『快楽の宮殿』(1566-67)の中の ‘Giletta of Narbonne’ というエピソードを用いている。
 大雑把な筋を見ただけでも、この作品が多くの問題点を提起していることは明白である。第一に、主人公のヘレナは、当時の社会で女性は男性に従う存在と定義づけられていたにもかかわらず、自らの恋を成就するために積極的な行動をとり、社会秩序の攪乱につながる可能性をもつ結論を導いていく。先代のロシリオン伯に仕えた ‘poor physician’s daughter’(2. 3. 115)であった彼女は、バートラムとの結婚により将来のロシリオン伯爵夫人となり、それなりの政治力をもつことになるのだ。しかもヘレナは、父親の遺した処方せんを使ってフランス王の治療をしたとはいえ、当時の女性は家族の健康を守る以外の目的で治療をすることは許されていなかった。1518年にHenry VIIIによりThe Royal College of Physicians(女性は入れない)が設立され、ここに属する医者のみが患者の治療を許されていた。正式な医学教育を受けていないのに治療を行う人は ‘empirics’ と呼ばれ、「偽(にせ)医者」とみなされていた。ヘレナは明らかに ‘empirics’ の一人である。 ‘empirics’ の中には、超自然の世界と関わる魔女とみなされる人も多くいた。また、バートラムの子供をもうけるためにヘレナが仕掛けた ‘Bed-trick’ は、当時、跡継ぎのいない貴族によって行われることが珍しくなかったとはいえ、観客が素直に受け入れられる手段ではない。事実、ヘレナ自身が自分が行おうとしている‘Bed-trick’ を正当化するのに苦労している(3. 3. 43-47)。
 ヘレナの行動がはらむこのような多くの問題を、作者シェイクスピアは、当時の一般庶民によく知られていた ‘All’s Well That Ends Well’、「終わりよければすべてよし」という諺を劇のタイトルに冠することにより、いわば観客に目隠しをして、幕を閉じている。
 しかし、実はヘレナという野心的な女性登場人物を演じるのが少年俳優であったことで、これらの問題はさらに鮮明に打ち出されている。
 野心の対象がマクベス夫人やシンベリン王妃のように権力、王権といった公的領域のものではなく、恋する男性との結婚という私的領域のものであったとはいえ、次々と破廉恥な行為を行っていくヘレナは、当時の常識から判断すれば「悪女」として表象されても不思議ではない。しかしシェイクスピアは、観客が彼女を悪女と捉えないように作品づくりをしている。まず、ペインターの翻訳書には存在しない登場人物を創ったり、原典で触れられているだけの人物の役割を膨らませたりして、ヘレナの「野心」を擁護している。第一に挙げられるのは、ヘレナと社会的には同じ立場にあり、やはり野心に満ちたペーローレスというバートラムの臣下を創りあげていることである。ペーローレスの特徴はその名前が示唆するように達者な言葉であり、彼の関心は社会的昇進と派手な服装だけで、中身の全くない人物として描かれている。
 劇の冒頭でペーローレスは、バートラムに同行しパリの宮廷に向かおうとしているが、出発前にヘレナと女性のVirginity(「貞淑さ」)について議論する。16、17世紀の社会において最も大切な女性の徳とみなされた「貞淑さ」をペーローレスはチーズに喩え、大事にしまっておいてもカビが生えてくるだけで何の役にも立たないから早く捨ててしまえと言い、卑猥な表現を使って当時の道徳観を揶揄する。ところが驚いたことに、ヘレナはペーローレスの議論に喜々として加わり、最後には「それを自分の好きなように手放すには、どうしたらいいのでしょう?(1. 1. 129)」とまで言い出す始末である。露骨な言葉で「貞淑さ」無用論を唱えるペーローレスの議論に笑いながら乗ってくるヘレナは、本物の女性ではなく少年俳優が演じたからこそ観客は受け入れることができたと思われる。社会的地位の低い出自など気にせず、バートラムを利用して宮廷人に成り上がろうとしているペーローレスも、自分より身分のはるかに上のバートラムの妻になりたがるヘレナも、当時の社会秩序を乱す ‘social climber’ である点では同じである。ヘレナは社会的には同じ立場のペーローレスといる時には気持ちが安らぐのか、それまでは寡黙を通していたのに、この場では快活でヴァイタリティあふれる女性に変わっている。それまでバートラムへの想いを諦める方向で物思いに沈んでいた彼女は、ペーローレスとの「貞淑さ」論争の後では、態度がすっかり変わる。失敗の可能性を充分承知の上で、父親の処方せんを使ってフランス王の病を治療し、褒美としてバートラムとの結婚を要求する決意をし、パリに向かう覚悟をするのである。
 しかしシェイクスピアは、ヘレナとペーローレスという ‘social climber’が、人間性においては全く異なることを、原典には出てこない人物を創り上げることで明らかにしている。まず挙げられるのは、バートラムの母親のロシリオン伯爵夫人である。女役を演じるのが少年俳優であったこともあり、シェイクスピアの劇には魅力的で複雑な想いを抱く中年の女性はあまり登場しないが、ロシリオン伯爵夫人はその数少ない一人である。父が亡くなり孤児となったヘレナをロシリオンで育ててきた伯爵夫人は、彼女を自分の娘とみなし、高貴な血筋や財産はなくてもすばらしい人格をもっていると絶賛し、ヘレナの「無謀な試み」を温かく見守り、応援をしてくれる。一方、自分たち貴族の地位をおびやかす存在である ‘social climber’ への批判と嫌悪感の一切は、ペーローレスに向けている。
 さらにシェイクスピアは、バートラムの父と親しかった貴族のラフュー卿を創作し、パリの宮廷で病の治癒を諦めているフランス王を説得し、正式の医者とはみなされないヘレナに、「失敗すれば死」という条件のもとで、治療をすることを可能にしてくれる。ラフュー卿もヘレナの徳の高さを始終賞讃しているが、ペーローレスについては常に激しく批判している。
 この劇が書かれ上演された頃のイギリス社会で実際に起きていた価値観の変化、すなわち神や運、奇跡といった超自然の力に自分の運命を委ねる中世以来の価値観が、科学や身につけた教育の力で自らの将来を開拓し、既成の社会的状況も覆していく16、17世紀の価値観、つまり近代の価値観に変わっていく複雑な社会状況が、この作品には描かれている。女性でありながらも、父からもらった処方せんによって王の病を治しバートラムを手に入れるヘレナは、実際に当時の社会で台頭し始め、やがて従来の社会の形を変えていくProfession(職業)をもつ人間を体現している。 ‘Profession’ という言葉は中世では信仰を意味していたが、16世紀後半には「職業」という意味に変わっていく(1576年OED初出)。また、無理やり結婚させられたヘレナと暮らすことを拒絶するバートラムに彼女が巧妙に用いる ‘Bed-trick’ という手段も、Professionに必要な ‘expertise’(専門的技術)の一つとみなすことができるかもしれない。シェイクスピアは典型的な ‘social climber’ であるヘレナを善良な人物として創り、彼女を受け入れ支援する古い価値観を体現する世代の貴族を創作することで、自らの将来を自分の力によって築こうとする新しい世代の価値観を、条件つきではあるが認めているように思える。
 特にその興味深い側面が、フランス王の表象に見られる。フランス王は原典に登場はするが、シェイクスピアはこの役を大幅に拡大し、複雑にしている。ヘレナに病を治してもらった後、約束どおり彼女が望む男のバートラムと結婚させようとして、彼の激しい抵抗に遭い、この後は世代の異なる二人の男性の権力闘争が繰り広げられる。結局、王はバートラムをヘレナと式を挙げることに無理やり同意させるが、その後で、人の血は皆同じであるのに血統による身分差別が社会に存在することを嘆く(2. 3. 110-13)。
 伝統的な社会秩序のおかげでフランス王という地位を確保しているにもかかわらず、自分の価値や権威を自ら否定するような不可解な科白だが、言っているのがフランス王であり、社会秩序の転覆を企てる身分の低い人物の発言ではないので、大衆劇場でも不穏な科白とはみなされなかったのであろう。
 しかし、この作品には一貫して、自らの能力と教育を生かして社会地位の向上を目指す情熱を肯定し、身分による人間の本質的な差異を認めない視点が存在している。ちょうどこの頃のイギリスでは、少し前に大幅な教育改革がなされ、Grammar School の数もずっと増え、自分の教養や力をつけるためのマニュアルが大量に出版されていた。法律や医学、神学といった、やがてはイギリス社会のエリート層を築くProfessionsのためだけでなく、職人の技(わざ)を身につけて社会上昇していく庶民のためのマニュアルも多く出回っていた。いわば将来のMiddle Class(この頃は ‘the Middling Sort’)の誕生といえる。この劇のユニークなところは、シェイクスピアが上昇志向を体現する主人公を女性にし、少年俳優に演じさせ、さらに古い価値観を代表する登場人物を創り上げて彼女の行動を支援させることにより、観客によっては感じられたかもしれない反発を抑えているところである。いわば社会の現実を、少年俳優を使うことでFiction化しているのだ。
 一方、ペーローレスはフローレンスの戦場で軍人として社会上昇を試みようとするが、MilitarismというProfessionの精神も本質も理解していない彼は大失敗し、最後にはラフュー卿に「道化」という別のProfessionで雇ってもらって、やっと生き延びる。しかし、彼の大嘘がばれてバートラムを含む貴族たちの前で大恥をかき、追放されても、‘There’s place and means for every man alive’(4. 3. 286)と強気の言葉を吐いている。さまざまなProfessionにより社会の中で自らの場所を築いていく庶民の強さが感じられる科白である。
 このことは、この劇だけではなく、シェイクスピアの他の劇作品にも見られるが、1609年に出版された『ソネット集』にも表われている。ここでは詩人が美しい青年貴族に、世継ぎをつくるために結婚を勧めながらも、身分においても年齢においても大きな差のある彼に対する自らの深い愛情を吐露している。しかし、詩人は彼の美しさと身分の高さを美しい言葉で謳い上げる一方で、それらはやがて時間の力によって破壊され、この世から消えていくものであり、青年の美しさを後世に伝える唯一の手段は自分の書く詩であるという、詩人自らのProfessionに対する誇りと自信があちこちで読み取れる。
 All’s Well That Ends Wellと『ソネット集』を関連づける研究はこれまでもなされてきた。どちらも身分の高い美しい青年貴族と、身分が低く社会的に力のない人物(詩人や身分の低い女性)との関わりが中心に描かれている。All’s Wellの場合、ヘレナ役は年若い少年俳優が演じたが、Steven Orgelは、シェイクスピア時代のオール・メイル・キャストで重要なのは、すべての役を男性が演じたことではなく、女役を少年が演じたことであると述べている。少年の演じるヘレナが、美しく身分の高いバートラムに恋い焦がれる劇の筋は、『ソネット集』の中で詩人が「若くて美しい青年貴族」に感じる同性愛的恋愛感情をも想起させる。
 このようにさまざまな問題が錯綜したまま、この劇は ‘All’s Well That Ends Well’ (「終わりよければすべてよし」)という諺の言葉でくくられて終わる。ただしシェイクスピアは、必ずしもそうならないかもしれないことを2カ所で示唆している。1カ所は、ロシリオン家の指輪をし、妊娠して登場したヘレナに再会したバートラムが、「もしこのいきさつをはっきり説明してくれるなら、ヘレナをいつまでも、いつまでも心から愛します」(5. 3. 305-6)とフランス王に向かって言う科白である。もう一つは劇の最後に、フランス王が一人の俳優に戻り、「もし皆様がこの公演に満足したとおっしゃってくだされば、すべてはうまく終わったことになります」(Epilogue, 1-3)と、観客に向かってエピローグを述べる箇所である。これらのどちらの科白にも ‘if’ という言葉がつけられている。この ‘if’ がうまく機能しない公演であれば、この芝居は混乱したままの「問題劇」(‘Problem Play’)で終わってしまうと言えよう。
 All’s Well That Ends Wellのヘレナの場合を含め、女の強い野心(’ambition’)を女優ではなく少年俳優が演じたことにより、シェイクスピアが舞台で表現できることの幅が広がり深みが増したように、私には思われる。

※シェイクスピア劇の引用はすべてThe New Cambridge Shakespeare版に拠る。

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